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「将軍秀忠の火遊びも思わぬ忠義を生む」」16.05.22   [歴史のこと]

今日はたまの日曜日だ。

堅苦しい話は無しにして暫し昔を振り返って見てみよう。

時は江戸時代、竹千代と国千代の話は家光に謀反の罪を着せられ腹を切らされた駿河大納言忠長の悲劇として終わるが、

一方で同じ秀忠の息子として生まれ、大成功をした収めた保科正之の話。

秀忠の四男に当たる。

秀忠の正室於江与は信長の血の繋がる勝気な女性だ。

秀忠はそんな於江与に頭が上がらない。

うっかり浮気がばれでもしようものなら、ましてその子供でも出来ようものなら、親子共々殺され兼ねない。

だがそんなスリリングな嫁の目を盗んで隠し子を作ってしまった。

さあ大変秀忠は戦々恐々である。

もし正室於江与の方にでも見つかれば、すぐ下ろさせるか、母ごと殺されかねない。]

保科正之の母は神尾氏の娘でお静の方と呼ばれていた。

秀忠は側近の土井利勝に頼んで武田信玄の娘見性院(けんしょういん)に預けた。

見性院は同じ将軍の子なのに、と大いに同情した。

そして於江与の目にも耳にも入れない様細心の努力をした。

土井利勝は早速信州高遠の保科肥後守に養猶子として預けた。

やがて保科氏は死に正之は高遠の城主になった。

だが余りにも禄高が少なすぎる。わずか三万石である。

それを知った家光は正之を出羽国山形に20万石の所領を与える。

やがて会津若松28万石を与える。

かの駿河大納言忠長とは大違いである。

余程家光には幼いころのトラウマが強かったのだろう。

家光は正之を異母弟と認め、北の備えとして重用する。

近くには外様の伊達62万国がある。

しかしあくまで外様である。

正之には徳川の血が流れている。

こんな心強い事はない。

そんな家光の恩に報いるべく正之は北の備えとしての重責を担う。

正之の功績としては主君が死した際それの後を追って殉死することを禁じた。

又武家諸法度19条を改訂し、新諸法度21ヶ条を示した。

そして慶安四年(1651年)家光は亡くなる。

その臨終の席に保科正之は呼ばれた。

そして家光の意思を継ぎ幕末に至るまで德川家の守り役に身を挺することを誓う。

幕末薩長の陰謀で錦の御旗を奪われ賊軍として新政府軍に追い詰められるが、

他藩の様に徳川を裏切ることなく最後まで戦い抜いた。

あの会津鶴ヶ城での攻防戦、新政府軍にほとんどの潘が徳川を裏切る中、一人徳川を守り戦った。

又幕末京都守護職として幕府の守りとしても将軍家の守り役として戦い続けた。

それも初代会津藩主正之の北の守りを担い続けた保科家の誇りである。

例え敗れても徳川将軍家を守り通すと云う矜持であった。

そのように例え滅びようと男子としての誇りを忘れなかった。

今の日本人にそんな誇りと勇気があるだろうか、

今また日本全体が中国に飲み込まれようとしている中、

自らの命を掛けて守り通そうとする誇りも勇気もないだろう。

徳川も保科も今や遠い思い出である。

それよりなによりアメリカにすっかり抑え込まれ、独立国としての誇りも勇気もなくしてしまった日本人。

保科正之の心意気、我々はそんな誇りある民族だったのだ。

誇りを取り戻せ、、、

「叔父児と大天狗の争い」15.11.22 [歴史のこと]

 母の里は四国香川県の綾歌郡である。

今は名前が変わっているようだが、母が死して既に14年、無性にその里を訪ねて見たくなった。

既に母の里も代替わりし知り合いも居ないのだが、

その昔と云っても私が小学校二年生の頃その小学校にお世話になった。

尤も中学の頃にももう一度お世話になっているが、当時は小学校も中学も同じ場所にあった。

今は中学は別になっているようだが、今や懐かしい思い出である。

が目的はもう一つある。歴史好きの私、あの満濃池のすぐ近く、

と言えばかの弘法大師空海の出身地である。

讃岐佐伯氏の出処とも言われ、佐伯氏は国家守護の役目を受け持ち大伴氏の家来とも言われる。

その空海が作ったひときわ大きな池。

大体香川県には大きな川が無い。

従って農業をするにはどうしても水瓶の様な池が必要になる。

その中で満濃池は特別大きいが、その他にも大小合わせて無数の池がある。

母の里は予讃線で端岡と言われる駅がある。

その近くだ。

既に70年以上前の話だが、まだ日本はあの戦争の最中

、母の里のすぐ前を四国往還と云う細い道が通っていた。

昔はれっきとした讃岐往還という国の正式道路であった。

今では高松のベッドタウンとなりすっかり昔の面影はないが、

当時は戦争末期、その50メートル程先に幅10メートル程のまっすぐした道路を作っていた。

それは何と飛行機の滑走路を作っていたと云われる。

今はそれが国道11号線になっている。

戦争末期既に制空権を無くしていた日本軍、

殆ど毎日アメリカのグラマンが飛んできてその出来具合を偵察に来ていた。

それは低くパイロットの白いマフラーが見えるほどの低さで、ただ決して機銃掃射はしない。

ただ偵察しているだけだった。そんな懐かしい思い出も蘇ってくる。

今ではすっかり高松のベッドタウンとなり変わり果ててしまっている。

さて肝心の母の里だが、北側に通称犬の尻山、

正式には白峰山と云う全く犬のお尻の様な形をした山があった。

その山の向こう側、今では五色台と云う名前がついているらしいが、

その中腹に無念の思いを満腹に抱いて憤死した第75代崇徳天皇を祀った寺がある。

名を白峰寺と云う、あの有名な保元の乱で敗れ、四国に流された悲運の天皇崇徳天皇の陵がある。

崇徳天皇の後ろ盾は白河法皇である。

鳥羽上皇の第一子として生まれたことになっているが、

実際はその白河法皇が本当の父ではないかとささやかれている。

母の待賢門院障子(じゅけんもんいんしょうし)が鳥羽天皇の中宮として入内する前、

白川法皇の寵愛を受けていたそしてその後もその障子の元に通っている。

それが白河法皇の子供ではないかと言われる所以である。

でも白河法皇が生きている間は良かった。

がその死とともに運命は暗転する。

後継争いは熾烈を極める。

彼の大天狗と揶揄された後白河天皇が崇徳天皇を排除する。

折から天皇家を補佐する藤原摂関家でも後継の争いが起きる。

前関白藤原忠実(ただざね)は長子忠通(ただみち)より末っ子の頼長(よりなが)を寵愛し、

摂政関白の地位につけてしまった。

後に云われる悪左府頼長である。

頼長はかの有名な宇治平等院を建立したことで有名な摂政だが、しかし悪智慧に関しても有名な男である。

何しろ悪左府とあだ名がつく程。尤も当時の悪は偉大だとか優れていると云う意味もあるが、

それが崇徳天皇側に付く。

そして忠通も頼長も競って天皇家にわが娘を入内させようと競争させるように入れる。

その娘に子供が出来れば天皇家の外祖父としての地位につける。

このようにしてあの保元の乱ははじまる。

要するに天皇家の後継争いの果てに始まったようなもの。

その争いの最中悪左府頼長は敵の矢に当たってあえなく戦死する。

もうこうなると崇徳天皇を擁護する後ろ盾は無くなる。

かくて四国讃岐の白峰山に流される。

そして都への帰還を何度も願い出る。

最期は自分の手を切り、その血で歎願書を書き都に送る。

しかしその歎願書は海の底に投げ捨てられ、無視される。

以来すっかり気落ちした崇徳上皇は髪も伸ばし放題、

爪も切らず、幽鬼の様な姿で都を恨み続ける。

そして恨みを残したまま讃岐の地で果ててしまう。

崇徳上皇は最後にそんな天皇家に恨みを書き残す。

「我は日本国の大魔王なり、皇を取って民と為し、民を皇となさん」と書いて恨みを書き残す。

その直後から崇徳天皇の怨霊が都に降りかかるように数々の事件が起きる。

都では崇徳天皇の怨霊が祟っているとおそれられ、大いにそれを静める祈祷をしたと云う。

今は国分寺町の中に組み込まれているが、

その名の通り国分寺、端岡近辺は讃岐国分寺があり、国分尼寺跡がある。

つまり高松の街よりその国分寺町と言われる付近が讃岐の中心地だったようだ。







「125代の皇統も平穏ならず」15.10.10   [歴史のこと]

今日は日曜日、暫し世界の混乱から目を離し、古きこの国の文化を振り返って見たい。

世界で最も長く、一つの王朝を守り続けた日本。

今や125代、しかしそれも決して平坦ではなかった。

衰微の余り消えかかるような危機もくぐってきた。

武士たちに実権を乗っ取られ、権力の座から引き摺り下ろされ、

ただ権威の象徴としてのみ利用されてきた歴史もある。

第103代後土御門天皇と、第104代後柏原天皇。

折からの応仁の乱のうけ、京都の町は殆ど焼き尽くされ、

朝廷の財政は窮乏を極め、細々と続いた王朝も途切れんばかりに貧乏の谷底に陥れられた。

その中で寛政5年(1464年)後土御門天皇第103代の天皇としては即位した。

この天皇と104代後柏原天皇は歴代天皇の中でも最も惨めな立場に置かれた天皇として知られている。

践祚式を行う予算にも事欠き、有力大名にそれを要請してもそれに応じる様な大名は誰も居なかった。

それどころか天皇領の作物を横領する大名まで出てくる始末。

その中で皮肉にも尤も長く天皇の座にあり続け、

在位中、文政、応仁、文明、長享、延徳、明応9年まで

1464年から、1500年までの36年間まで、長きにわたって在位した。

その中で文明2年(1470年)後花園天皇が室町亭で崩御し、後土御門天皇が即位する。

が運の悪い事にその室町亭も火災にあって北小路亭に非難をせざるを得なくなった。

その為天皇の務めである年頭儀式も窮乏の余り、中止せざるを得ない状況に追い込まれた。

そんな状況の中で天皇は何度も譲位遁世を漏らし、世をはかなんでいた。

加えて室町夫人日野富子、日野勝光の専横に腸が煮えくり返っていた。

しかし微力の天皇は如何ともしがたく、只耐えるしか方法はなかった。

将軍足利義政は政治をほったらかしで自らの趣味にふけっていた。

それを良い事に日野富子は蓄財に性をだし、兄勝光と共に専横を極めていた。

最早日野富子に子供が生まれることはないとして、弟義視を僧籍から還俗させて次の将軍に約束していた。

が富子に子供が出来たのだ。我が子に継がせたいのは母の常。

かくて応仁の乱は始まる。その最中に天皇に指名された両天皇、かくて歴代最悪の状況に陥れられる。

かくのごとく万世一系、男子男系の皇統も決して平穏に過ごしてきたのではない。

中には臣下に暗殺された天皇もいる。

ついこの間、と云っても百五十年程前だが、第121代孝明天皇、

余りに攘夷を主張し時勢を頑なに拒んでいたため遂には暗殺される羽目に陥ってしまった。

古くは天皇になりたくなくって乞食に身をやつし、皇継から逃れようとした天皇もいる。

尤もそのころは天皇ではなく大王と呼ばれていたが、

女性のピンチヒッターも8人、10代の天皇もいる。

しかし実際には数に入れられていない女帝もいる。

古くは神功皇后、飯豊女王(いいとよのひめみこ)なども女帝に数えられるだろう。

だから8人10代ではなく、10人12代と云っても良いだろう。

二千年に及ぶ万世一系はかくのごとく波乱に富んでいる。

決して平穏ではなかった。

「薬子の乱に名を残した平城天皇」15.04.05  [歴史のこと]

 桓武天皇を悩ませた平城天皇、事件の裏には女あり、その女故に身を滅ぼしたと云っても良いだろう。

その女こそ藤原薬子(ふじはらのくすこ)だ。

薬子は既に同族式家の東縁に当たる藤原縄主(ふじはらただぬし)と云う夫がいた。

そしてその間に三男二女がいた。

まだ平城天皇が安殿親王(あでのしんのう)と呼ばれていたころ、

薬子は長女を妃として平城天皇に妃として差し入れた。

その面倒を見ると云うことで親王の側に入り込んだ。

何のことはない娘を出汁にしながら自らが親王と割りない中になってしまったのだ。

親王もまだ子供の様な小娘より、年恰好も同じくらいの薬子の色香に参ってしまった。

その親子相姦の様なふしだらさを桓武天皇はきつく叱った。

さすがに桓武天皇生存中は薬子を遠ざけていた。

だが平城天皇は既に33歳、男盛りだ。

即位するや否や桓武天皇の敷いた政治路線を継承し忠実に実行した。

六道監察史を置いて勘解由使を排するなど桓武のやり残した政策だ。

しかしその桓武天皇はもうにこの世にいない。

そして自らの欲望が前面に出始めた。

そして私生活を制する人間はいなくなった。

もう歯止めは何もなくなったのだ。

そして即位するや否や薬子を内侍として呼び戻した。

内侍とは後宮十二司の長官である。

そして従三位の位を貰い公卿の席に列せられる。

そして昼も夜も、何処に行幸する時も必ず薬子がついてゆく。

時に天皇の行幸の時も同じ籠に乗る程離れなかった。

正に嬌託百端、皇后気取りで侍っていた。

そんな薬子を兄仲成が利用しないはずはなかった。

正に虎の威を借りる狐、ここを先途と利用しまくった。

薬子の父は暗殺された藤原種継(ふじはらのたねつぐ)、である。

種継は式家宇合の子孫だ。しかし式家は種継暗殺以来凋落を重ねていた。

父種継が生きていたならば、その権勢に乗りこれ程凋落することはなかっただろうと仲成は思っていた。

何時か再興してやる、とその機会を狙っていたのだ。そのチャンスが巡ってきた。

かくのごとく藤原各家でも権力闘争は苛烈を極めていた。

結局は武智麻呂(むちまろ)の南家、房前(ふささき)の北家、

宇合(うまかい)の式家、そして麿呂(まろ)の京家に分かれる。

が一番栄えるのだが房前の北家だ。

まだ藤原氏の中で競争は続いていた時期だ。

その仲成が薬子と平城天皇の間を利用して再興を図ろうとする。

が事はそれ程順調にはいかない。

肝心の平城天皇が病気にかかったのだ。

もともと体の弱かった天皇。食事も満足に取れないような状態になった。

最早政務を取れる状態ではないと思われた。

やむなく譲位を考えざるを得なくなった。

それに仲成の陰謀で平城天皇の異母親王、伊予親王(いよのしんのう)を謀反の首謀者として、

その母吉子(きし)共々幽閉し自害に追い込んだ。

その祟りではないかと平城天皇は恐れおののいていた。

一方仲成はますます薬子の威を借りてのさばりかえっていた。

そんなところに平城天皇の発病だ。

遂に西暦809年、即位僅か三年目。遂に弱り切って譲位を決断する。

心を残しながらやむなく実弟賀美能親王、つまり嵯峨天皇に譲位する。

そして上皇となる。そして京の平安京を捨て、南都奈良平城京に移り住む。

ところがそのころから平城上皇は体調が治ってくる。

元気を回復したのだ。途端にもう一度天皇の座に帰りたい欲望にかられた。

勿論薬子の強烈な勧めもあったのだろうが、というより仲成の進めの方が強かったが、

折角手に入れた権力をどうしても離したくなかった。

遂に810年9月6日上皇は重祚を宣言する。

しかし嵯峨天皇はそのことを察していて、坂上田村麻呂に十分上皇の動静を監視させていた。

そして上皇が重祚するや否や即行動に移った。

即平成上皇の身柄を押さえさせる。

最早これまで平成の足掻きもここで終焉を迎える。

即身柄を抑えられる。

流石の平城も最早これまで、上皇はすぐ出家して頭を丸める。

薬子は内侍の位を剥奪され、毒をあおって自殺する。

世に薬子の乱と呼ばれる騒動も此処に幕を閉じる。

しかし平城上皇はその後14年間も長生し、50歳まで生きていた。

が位を譲った嵯峨天皇がその前年亡くなっている。

ただ平城上皇の孫にはあの三十六歌仙の一人在原業原(ありはらのなりひら)を残している。

業平の兄行平も有名な歌人だ。

只平城そのものは人生を持て余し、余生をひっそり平城京で生きていた。

どんな気持であっただろうか、さぞさびしい老後だっただろう。

只この天皇死後にも話題を残した。

それは古墳の中でも大きい方に数えられる市庭古墳がこの天皇の墓所だと云うことだ。

しかし既に古墳時代が終わって350年近くも経っている。

孝徳天皇が薄葬令を出してからでも300年は超えている。

何故にその天皇がそこに祀られているのか、全く理解不能。

死後も騒がせる天皇である。

「伊勢新九郎長氏変じて北条早雲となりぬ」15.02.15 [歴史のこと]

 一体日本に於ける戦国時代はいつごろから始まったのだろうか。

既に応仁の乱がその始まりだろうか。

しかしあの応仁の乱は結局尻切れトンボで終わり決着がつかなかった。

その時代既に北条早雲はもう京の都で活躍していた。

早雲は既に35歳の働き盛りだった。

そして室町幕府の申次衆として足利義視に仕えている。

京の今出川に住み、俗に今出川殿と呼ばれていた義視。

結局義視は将軍になれなかったが、その長男義植が第十代将軍になっている。

申継衆と云っても実収入は皆無に等しかった。

そして馬の蔵作りをして糊口をしのいでいた。

そしてまだ早雲と名乗る前の新九郎は在野に下った。

その後しばらく鳴りを潜めていたが、領地の伊勢地方か、

領地を持つ備中の井原地方に逼塞していたのか、定かではない。

彼が再び動き出したのは妹と呼ばれる北側殿が嫁している今川家の跡目相続のもめ事からだった。

しかしこれは本当の妹ではない、当主伊勢貞親の命令で、そちが兄になってやれと云われたからだ。

多少の血はつながっているが本当の妹ではない。

司馬遼太郎の小説「箱根の坂」には北川殿になる前の千萱が新九郎にほのかな恋心を持っていたことが書かれている。

伊勢伊勢守貞親は勿論平家の出である。

あの平家物語には六代切られの事でこれにて平家は長く絶えにけり、とあるが平氏が全て絶えたわけではない。

桓武平氏の高望王の流れ、あの清盛もその流れだが、

伊勢平氏を名乗ってから二代目正度(まさのり)の時代から清盛流は分れている。

そして伊勢氏は室町幕府の執事役をしている。

ちゃっかりと足利幕府、つまり源氏に仕えているわけだ。

そして八代義政の頃、応仁の乱は始まる。

そもそも義政は政治にはほとんど興味はなかった。

一日も早く引退し趣味の世界に逃げ込みたくて仕方がなかった。

そして義政に子が無かったので、弟の義視を連れてきて後を継がせようとした。

義視は既に弟として寺に入れられ、義尋と称して仏門に入っていた。

それを強引に還俗させ義視として後を継がせようとした。

が思わぬことに夫人日野富子に子供が出来た。

当然富子は我が子に跡を継がせたい。

そしてそのことを山名宗全に頼む。

これがあの京を焼き尽くす騒乱、応仁の乱の原因である。

結局11年も争ったが、宗全も相手の細川勝元も途中で死んでしまい,乱は立ち消えになってしまった。

そのころ既に新九郎は早雲と名乗り、第二の人生を歩み始めていた。

あの頃人の命は50歳も生きれば長生きの方だった。

後年信長が好んで歌っていた「人生五十年、下天のくらぶれば一度生を受けて滅せずものありべきや、、、」歌い舞っていたが、

それより約100年以上前の話である。

あの婆沙羅大名として有名な佐々木導誉でさえも78才しか生きなかった。

それを早雲は88歳まで生きている。伊勢氏は各地に領地を持っている。

その一つ備中後月郡荏原町にもあった。

あの鏡獅子で有名な平口田中(ひらぐしでんちゅう)美術館のある処である。

伊勢新九郎長氏はそこの出ではないかとも言われている。

その早雲が事を起こしたのは59歳の時、妹北川殿が嫁していた今川家で変事が起った。

当主義忠が敵を深追いし過ぎて戦死する。

北側殿の夫、たちまち後継争いが始まる。

義忠には北側殿との間に一子しか残していない。

その名は竜王丸、その騒動の解決に早雲は乗り出す。

一族の小鹿に住む今川範満が竜王丸の成人までの間後を引き継ぐとして乗り込んできた。

が竜王丸が元服し跡目を継げる条件が整ったにもかかわらず、一向に跡目を相続させず居座ってしまった。

そこで新九郎は武力を持って範満を攻め滅ぼし、そして無事竜王丸に跡目を継がせる。

そして竜王丸は氏親(うじちか)と名乗る、それが信長に討たれた義元の父である。

勿論氏親の軍師として今川家の興隆に尽くしたことは言うまでもない。

そして政敵を滅ぼし、駿河の東端興国寺城を貰う。

しかしまだ戦国大名としては認められていない。

そこで足利一門の堀越公方で内紛が起きる。

すかさずその内紛を利用して足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆一国を奪い取ってしまう。

これで早雲も戦国大名の仲間入りを果たしたわけだ。

普通ならばそれで満足する所だが、早雲は満足しなかった。

隣の相模国の大森藤頼を攻め、箱根の坂を越えて相模進出の一歩を踏み出す。

相模の岡崎城(現平塚市)を落とし、まだ新井城(現三浦市)の三浦義同を攻め滅ぼし、

これで伊豆・相模二カ国を領する戦国大名になったわけである。

かの有名な太田道灌とも交流があり、文化人としての風雅を持っていた。

また早雲は優秀な民政家とも言われ、土地の農民に対しても四公六民、

つまり領主側は四分をとり農民側には六分を渡すと云う取り決め、農民の生活を豊かにした。

そのため早雲を慕って他所からも農民が多く移り住んだと云われている。

がこのころから戦国時代は始まり、およそ100年間血で血を洗う騒乱の時代となった。

当の今川氏は氏親の次男義元が桶狭間で信長に打たれ、氏真(うじまさ)の時代になる。

氏真はすっかり家を継いで立てる気概ない。

あの時代それは狼の前に差し出された餌の如く食いちぎられてしまった。

そして今川家は消滅してしまった。

一方北条家はそれから栄えるが、秀吉に攻められ氏政と氏照が切腹し殆ど滅亡状態になった。

がわずかに氏規が生き残り後を継ぐ。

そして河内狭山藩一万一千石を貰い大名として生き残った。

そして12代氏恭(うじゆき)迄続き明治17年子爵として叙せられている。

日本の長い歴史は連綿と続く、明治の維新があっても古き名族は今も生きている。

朝鮮半島の様に他国の傘下に下ったことはない。


「家康に合わせる顔がない」14.11.23 [歴史のこと]

  家康が天下を取って約260年の泰平を築いたが、

もし信長が暗殺されず天下を取って居たらこの国を統治出来ていただろうか、

まるでTの字を逆さにしたような組織、一強全弱を絵にかいたような組織ではとても無理だっただろう。

秀吉はまるで拾い物をするように天下を取ったが、所詮田舎者の生まれ一代で終わってしまった。

しかし家康は德川の治と云われる泰平をあれほど長く続かせた。

だがその基礎を築いたのはただの知恵ではなかった。

家康が徳川と名乗る前は松平と云った。

その松平は18家にも広がる親族を持っていた。

その最初を作ったのは一人の乞食坊主が三州三河松平郷近辺を流れ歩いていたことから始まる。

この坊主名を徳阿弥と名乗り、宿を貸せ宿を貸せと近辺の豪農を回っていた。

そして宿を借りながらあちこちの家に忍び込み、その家の娘どもに夜這いを掛け、

次々に種を仕込んでいた。そして出来た子供があちこちに散らばる。

後に家康が我は藤原の出などと云っていたが、藤原では征夷代将軍が下りないと知り、源氏の出身などと云い始めた。

それがいかに出鱈目であるかは世に膾炙している。

当時の大名などほぼこれと同じだ。

だが事は松平の発生にある。

今から580年程前(1435年)頃の事である。まだ応仁の乱がはじまる前、

諸国は入り乱れ、乞食坊主か何とか聖が入り乱れ道端には餓死者がごろごろ転がっていたころ。

やがて徳阿弥は親氏(ちかうじ)と名乗る。

そして我の一命を十代の子孫に捧げ、この近在を代々に亘って切り取り攻め取り、まず十代のちには三河一国を我が所領とせよ」と遠大にして強烈な遺言を残して逝った。

残した子孫は18松平とも、16松平とも呼ばれるほど広がっていった。

まず竹谷松平、形原松平、大草松平、五井松平、深溝松平、能美松平、永沢松平、石川松平、

続いて大給松平、瀧脇松平、宮石松平、

まだ増えて福窯松平、桜井松平、藤井松平、東条松平と次々と増殖してゆく。

そして松平は続いてゆく。

松平家は親氏、康親、信光、親忠、長親、信忠、清康そして家康と繋がる。

家康が生まれたのは天文11年(西暦1534年)、母は水野忠正の娘於大の方、

しかし家康三歳の時離別さされている。

水野家が織田に通じているからという理由だ。

そのころ信長は9歳、秀吉7歳、信玄22歳、謙信13歳、

しかし家康の少年時代は不遇だった、というより悲惨だった。

既に松平の家は衰微し、強国に取り囲まれ、今川の支配下に置かれていた。

家康は幼名を竹千代と云ったが、14歳の時元服して松平次郎三郎元信と名乗る。

が生まれてすぐすぐ今川に人質として差し出せとの命が下った。

そして今川に下る道すがら、世情不安な当時、織田に通じていた戸田宗光によってかすめ取られてしまったのだ。

そして織田側に売りつけられた。

当時の織田の当主は信長の父信秀、その人質を買おうと永楽銭百貫文で買い取ってしまった。

が織田方の扱いはそれ程悪くはなかった。

後に織田と同盟を結んだのもこのころの扱いが底にある。

人質の竹千代が本貫地に戻ったのは天文18年(1549年)の事、

すぐ義元から使いが来訪し,竹千代は若年であるから駿府で養育し義元が後見する、との命が下った。

やっと帰り着いたのにわずか12日後にはこの知らせ、松平党は息をのんだ。

さりとて今川に抗する程の力はなかった。

この様に家康の幼少期は人質のたらい回しにあっていたのだ。

この辛酸なめ尽くした幼少期が後年の家康を育てた。

そしてあの18松平の親藩、それを取り巻く譜代の家臣、そして関が原以降に従った外様。

それがあの260年余りの平和をもたらした。

が家康も棚から牡丹餅で天下を取ったのではない。

織田との同盟は大きな犠牲を払って続いた。

家康の最も信を置いた長男信康、最初の正妻築山殿、何れも信長の命によって命を取られてしまった。

どれ程悔しかっただろうか。

信長は家康の長男信康の才能を見抜き、我が子信忠と比べ余りの才能豊かさに後年災いが残ると難癖をつけて腹を切らしてしまった。

又築山殿は武田に通じていると難癖をつけ、遂に殺してしまった。

それにも堪え、秀吉天下取りにも協力し、最後に生き残った僥倖として天下を手にしたのだ。

そして万全の支配体制を敷いて行った。

実に巧妙に親藩と譜代を配し、その間に外様大名を置く、日本全国64国を300余家に分け統治させている。

そしてFRBもびっくりするような監視力。

そしてその盤石の組織を作り上げる。

その監視の目を緩めない。少しでも不祥事があればすぐお家取り潰し、

徳川になって以来どれほどの家が取り潰されたか、

関が原直後に取り潰されたのは74家、およそ400万石。

そのほとんどは元禄のころまでには落ち着いたが、太平の世は明治維新までつづいた。

最後に取り潰されたのは、天明八年(1788年)淡海小室藩一万石、不法を働いた罪で廃絶されている。

この国の完成は徳川時代にある。

他国がどうしても理解できない強固な一国文明、

そして主の為なら命を捨ててまで守ろうとする律義さ、

そして万世一系の天皇家の体系、

権力は武家に取られてしまっても、国家緊急の時は必ずその権威で国家を救う。

こんな国が世界にあるだろうか、それが熟成されたのが江戸時代である。

しかしたった一度の敗戦でここまで支離滅裂にされた今日の日本、

もうそろそろ目覚めて真の日本を取り戻す時期ではないか、、。

ヨーロッパなどでは戦いは日常茶飯事、一度負けたからと云って絶対にあきらめることはない。

ただひたすら次の戦いに負けない様鍛える。

しかしあの敗戦でこの国はどうなってしまったのか、

朝鮮半島から入り込まれ、又中国からも掣肘を受け、すっかり支離滅裂にされてしまった。

これでは家康に合わせる顔がない。

「あと十年生きていたならば、、、」14.11.02  [歴史のこと]

 この前は10年遅れてきた男伊達正宗の事を書いたが、

今回は逆にこの男があと10年長生きしてくれていれば日本の歴史は大きく違っていたかもしれない

織田信長の天下取りもあれほどスムースにはいかなかったかもしれない。

此処まで書けば既にお分かりだろう、武田太郎晴信、のちの信玄公だ。

大栄元年(1521年)に生まれ、幼名を太郎と云う。

あの流浪の将軍足利義晴が将軍になった年。

わずか四歳で初陣に出る。

勿論家臣に抱えられての事だろうが、それ程戦国時代は燃え盛っていたのだ。

そもそも甲斐の武田氏は第56代清和天皇から源を発する。

清和源氏の祖は孫源満仲に発する。その満仲には三人の子がいた。

一人は摂津源氏の頼光、次が大和源氏の頼親、そして河内源氏の頼信である。

甲斐源氏の祖となったのはその河内源氏頼信から来ている。

そして親羅三郎義光の子義清が甲斐八郡に配流され、武田氏を称したことから始まる。

そして源氏嫡流の頼朝が兵をあげた時、その頼朝の元に馳せ参じる。

そして抜群の働きを見せすっかり甲斐に定着する。

時代は下って晴信の父信虎の全盛期を迎える頃。

天文元年(1532年)には甲斐一国を平定し、太郎は13歳で上杉朝興の娘を妻に迎える。

だがその妻は懐妊したがあえなく死去する。

16歳にして元服し、従五位下大善太夫となり将軍義晴より諱名を一字貰い晴信と名乗る。

そしてまた公家三条公頼の娘を妻に迎える。

父信虎は自分の娘を今川義元に嫁がせ同盟を深める。

晴信18歳にして第一子義信誕生。

そして絶頂期であった父信虎を21歳の時駿河に追放する。

戦国の世は何でもあり、我が子に追い出された信虎の心境やいかに、そして晴信は甲斐一国の長となる。

しかしこの追放は領民から歓迎されている。

如何に信虎が領民を虐げていたか、このクーデターを領民は晴信を救世主の様に歓迎している。

当時は兵農分離ではない、兵農分離を実現したのは織田信長、殆どの兵は農民である。

だから農閑期にしか戦に出られない。

晴信は続いて隣の国諏訪の国を攻める。

そして諏訪頼重を攻め陥落させる。

頼重には信虎の娘が嫁している。

つまり義兄弟の間柄だ。

戦国の世は例え兄弟であろうとも隙あらば攻めることが常識。

その頼重の娘由利姫をめとり四郎勝頼を生ませる。

余程この由利姫に執着したのだろう。

嫡男義信を排しこの四郎勝頼を後継に指名している。

信玄は生涯約78回合戦を戦っている。

勿論かの有名な川中島戦い五回を含めて、

すべてに勝利しているわけではないが戦いの目的はほぼ達している。

その信玄が最後の望みとしては京の都に武田の御旗を立てるだ。

勿論あの有名な風林火山の旗である。

「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」の14文字の旗を掲げて、

訳すれば疾きこと風の如く、徐(しずか)なること林の如し、侵略すること火の如く、動かざること山の如しである。

これにもう一つ「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗を掲げて戦いに出陣する。

信玄は孫子の兵法からこれを引用し、部下たちを鼓舞している。

そして最後の戦いに挑む時が来た。

元亀三年(1573年)、その年将軍義昭から矢の催促、早く京に上ってくれ、既に周りは全て準備を整えている。

朝倉義景にも本願寺光佐にも、廻りは全て信玄の上洛を待っていると催促してくる。

そして信玄は京に上る決心をする。

その年の10月3日大群を率いて甲府から出陣する。

10月10日遠江二股城から攻略にかかる、此処は一月余りで攻略する。

そして12月12日遂に三河領に入る。所謂三方が原の戦いだ。

徳川家康の領地内を通過する。が当時の家康は信玄の敵ではない。

鎧袖一触で蹴散らされ、ほうほうの体で浜松の城に逃げ帰る。

家康はその時の己が姿を書き残し後世の戒めとした。

当時家康はまだ31歳だった。

当時信長はすっかり廻りを包囲されていた。

本願寺顕如光佐は同じ三条西家から嫁を貰っている。

言わば義兄弟だ。

当時の公家は領地からのコメが途中で地侍や豪族によって奪い取られるのが常態化し、

その為有力な武家に娘をやりそれを確保してもらうことが存亡の危機だった。

そしてまだまだ敵はいる。同じ三河の野田城も落とさなければならない。

これがなかなか難攻不落、遂に城に横穴を開けてそこから攻め込み陥落させる。

そしてその年が暮れるころから信玄は重い病に陥る。

勿論これが最初ではない。

長年の縮痾である肺の病とも云われる病気、それが再発し明日をも知れない重篤な状態になる。

急いで本国に引き返した。

そしてその途中信州駒場に於いて53歳で無念の生涯を閉じる。

元亀四年4月12日、我の死を三年間伏せておけと遺言して、さぞ無念な事だっただろう。

後日信長によって元亀とは縁起が悪いと云うので天正と改められている。

がその年の七月ごろである。

文献上元亀4年は登場しないが確実に元亀四年は存在したのである。

信玄はさぞ無念な事だっただろう。

それを知らない将軍義昭、必ず信玄が上洛してくると信じ宇治の槙島で兵をあげる。

勿論信長の敵ではない。

あっという間に征服され、256年間程続いた足利幕府も此処に幕を下ろすことになる。

足利幕府も潰えたが、もっと残念なことは後を継いだ四郎勝頼がその後わずか9年後に信長に完全に滅ぼされたことである。

ここに甲斐武田の家は消えてしまう。

勝頼の子信勝とともに甲斐と武蔵野との国境天目山のふもと田野の地に追い詰められ遂にはてる。

その哀れさは我々の涙を誘ってならない。

諸行無常とは言え,その信長も天正十年六月二日明智光秀に滅ぼされる。

武田を征伐して有頂天になっていたころである。

「我が子可愛さに目が眩むのは昔も今も一緒」14.10.26 [歴史のこと]

  この話は先週日曜日にしようと思っていたが、思わぬ女性大臣辞任劇。

些かピントが外れた様だ。改めて乗せてみよう。

今日は日曜日、醜い政治家の争いを避け、しばしこの国の古き歴史に浸って見よう。

時は今を去ること1350年余り前の事、

天智、天武天皇の時代の話、天智天皇が次は天武天皇に位を譲るとの約束を破って、我が子大友皇子に位を譲ろうとした。

大友皇子の母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのおとめ)如何に云っても位が低すぎるが

それでも天智天皇はどうしても皇継を大友皇子に継がせたかった。

大海人皇子は病床の天智天皇の前では異を唱えず静なに引き下がった。

そうして野に下った。勿論しかるべき時に備えての話である。

かくてあの壬申の乱は始まる。

天武天皇は当時まだ大海人皇子と呼ばれていたが、静かに吉野の宮滝に下った。

それはまるで虎に羽根を付けて野に放ったも同然。

早速東国に兵を募る。

大伴馬来田(おおとものまぐた)、吹負(ふけい)の兄弟たちがあちこちを回り兵を募る。

大伴氏とは古く天忍日命(あめのおしおみのみこと)から始まり天皇家の警備を司る家柄、

一族の子孫にはかの有名な大友家持がいる。

やがて天智天皇も死去する。

大友皇子はたちまち即位しようとする。

がそれを大海人皇子に阻止される。

所謂壬申の乱だ。

結局手もなく滅ぼされ大友皇子は自らの首を括って敗死する。

明治になって明治天皇がそれを皇位の座に付けて39代天皇とされる。

が昔は天皇と認められてなかった。

日本の歴史始まって以来生まれ年が不明の天皇は天武天皇以外にない。

尤も初代神武天皇の生年も分からないが、、、

本当は天智天皇より早く生まれていたのではないかと云われている。

そして天武天皇の皇后は天智天皇の二女、鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ)つまり後の持統天皇である。

天武天皇はそれぞれ母の違う七人の皇子たちを抱き寄せ将来後継の争いの無い様誓わせた。

がその天武天皇が死するや否やたちまち後継の争いは始まった。

まず一番頭がよく人気のあった大津皇子に難癖をつけ死に追いやられしまった。

大津皇子の母はこれも天智天皇の娘太田皇女(おおたのみめみこ)、これも天智天皇の娘である。

なにを隠そうまだ鵜野讃良皇女と云われていた持統天皇が天武天皇の偉を嵩に着て権力を行使する。

そこからあらゆる問題が表出する。

あの柿本人麻呂も強烈に反対する。そして石見に流される。

名前も柿本佐留と改めさせられてしまう。

そして帰還命令が出た途中で殺されてしまう。

人麻呂の長男も隠岐の島に流されてしまう、恐らく隠岐の島に配流された第一号だろう。

鵜野讃良皇女も父は天智天皇、そして自分の姉の子供をためらいもなく殺す。

何分にも自ら産んだ長子、草壁皇子を後継に立てたい。

しかし事はそう簡単にはいかない。突如その草壁皇子が死去する。

慌てた持統天皇は尤もまだ天皇とは言われていなかったが、

草壁皇子の子軽皇子(かるのみこ)に継がせたくて自らが天皇となる。

それが持統天皇だ。勿論天下は騒然となる。

我が子可愛さのあまり好き勝手に皇統を弄んだのだ。

もう一つあの藤原不比等が裏に絡んでいる。

後の天皇家の皇后には殆ど不比等の血筋が入っている。

これを説明する機会はいずれ来るだろう。今回は割愛する。

血筋が通っているとは言え、もっとふさわしい後継者はいたはず、

大津皇子はその筆頭だが、天武の長男髙市皇子は母の出が胸形君娘尼子娘(あまこのいらつめ)と云われ出自が低く、

最初から後継争いには引き下がっていた。

しかし持統天皇は我が子可愛さのあまりすっかり狂ってしまった。

我が子草壁皇子に引き継がせようと画策したが、苦労の甲斐もなくあっさり死なれてしまった。

それでも我が血を引き継いだ軽皇子、つまり孫が成人するまで自らが天皇になってしまった。

つまりピンチヒッターだ。その軽皇子がのちの文武天皇となる。

母執念の凄さ、これ程強い力を見せつけられたことはない。

そして天武天皇が旗揚げをした吉野の宮滝に毎年行幸を繰り返し昔を懐かしんだ。

その数合計36.7回にも及ぶと云う。

その行幸に昔は恋敵だった額田王(ぬかたのおおきみ)が必ずお供をしたと云う。

その額田王と天武天皇の間に生まれた十市皇女は大友皇子に嫁いでいる。

そして葛野王(かどのおおきみ)を生み、のちの淡海三船につながっている。

天皇の名前に漢風諡号を付けた人物。

いずれにしても我が子可愛さ、血の繋がりへの盲信は世を迷わす

。男子男系を誇る皇室だが、古代はかなり曖昧さを感じてならない。

日本の女帝は8人10代いる。

まず推古天皇、次が皇極天皇、後に再び践祚して斉明天皇になる。

次が孝謙天皇、これも再び践祚して称徳天皇となり、

これ以外にも元明天皇これは草壁皇子の妃、

次の元正天皇文武天皇の母、

次はずっと時代は下って109代明正天皇、

これは秀忠の孫である。

そして最後の女帝となる後桜町天皇だ。

何れも男子男系に継ぐ方策のようなものだったが、

この持統天皇だけは違う、我が子可愛さにどうしても自らの血統のみを重んじた。

母の愛はつよし、猛愛は歴史をも動かす。






「遅れてきた男、最後足掻きを見せる」14.09.06  [歴史のこと]

 この男を語らずして戦国時代は画竜点晴を欠くだろう。

遅れてきた男伊達正宗、彼がもしあと十年早く生まれて来ていれば戦国時代の歴史は変わっていたかもしれない。

永禄10年8月3日年(1567年)先代輝宗の子として生まれる。

信長暗殺の時はまだ15歳、いかにしても若すぎる。

それに東北を従えるだけで精いっぱいだったのだ。

正宗は幼名を梵天丸と云い、残念ながら幼時に疱瘡を患い片目を失明してしまった。

梵天丸の母は境を接する最上家から来ている。

兄義光の蔵意をしっかりと受け継いでいる。

長年子に恵まれなかったが、やっと念願がかない、男児を生む、それが梵天丸。

しかし梵天丸は疱瘡にかかり片目を失ってしまう。

そして次に出来たのが竺丸(じくまる)、それに母の愛情は移ってしまう。

この片目の梵天丸は可愛らしくなかったのだろう。

そして家督をこの竺丸に譲ろうと画策する。あろうことか梵天丸の暗殺迄仕掛ける。

それがやがてこの竺丸、小次郎を消さざるを得なかった事情の底流にある。

しかし正宗の死後の姿は両目が開いている。

それは正宗の遺言によるものらしい。かなりのコンプレックスだったのだろう。

そもそも伊達家は遠く藤原北家魚名の流れだと云われる。

その六代目朝宗が頼朝の奥州攻めに協力して功を上げ、陸奥伊達郡を与えられ伊達を名乗った。

そしてそれから17代目が正宗と云われる。

尤も正宗はもう一人いて大善太夫と云われる9代目がいるが、、。

梵天丸は天正五年(1562年)元服し藤次郎正宗と名乗った。

初陣は天正9年(1581年)伊達領を犯す相馬盛胤を懲らしめるため出陣し奮戦した。

そして運命の時は来る、父輝宗を自らの手で刺し殺さなければならない場面に遭遇する。

18歳で伊達家を継いで五年、福島安達郡の大内定綱が背いたので征伐に出かけた。

それには成功したのだが、定綱は畠山善継を頼った。

がそれも許されてその御礼にと善継は宮森城の輝宗の元に参上した。

がこれが間違いの元、城に上がり輝宗と会うや否や輝宗の脇差を抜き取り人質にしてしまった。

手も足も出ない状況の中で輝宗は己れごと敵を刺し殺せと正宗を叱咤する。

そして正宗は決断する。父を刺し殺し敵を征伐してしまった。

戦国とはそれ程苛酷な時代、その末裔が今日の様な平和ボケになり、

毎日商売人の手の上で踊っているとは、ご先祖様も呆れかえっているだろう。

国を失っても平和がよいと叫ぶ。国無くして何が平和か。

弱肉強食は今の世も正宗の時代も変わらない。

その後も近隣諸国を撃ち従え天正17年(1589年)遂に芦名氏を討伐して東北の覇者となった。

がこの芦名氏の居城を奪ったことを秀吉は問責した。

がそれに正宗は家臣を送って言い逃れする、当然秀吉は怒る。

その間も正宗は近隣諸国を犯し続けている。

秀吉は再度正宗の上洛を求めるがそれにも応じない。

しかし秀吉にはまず小田原の北条征伐に直面していた。

そして北条を征伐したのち直ちに伊達平定の軍を差し向けることを決めていた。

事ここに至っては最早正宗の野望は潰えてしまったのである。

そして天正19年(1591年)それまでの所領を取り上げられ、大崎郡以下20郡に閉じ込められ岩出山城に閉じ込められてしまう。

命を取られなかっただけ良しとしなければならない。

しかしそこに救世主が現れる、それは徳川家康だ。

股肱の臣も持たず成り上がりの秀吉はいずれ消え去るものと見越していた家康、

その家康は東北の守りとしてこの伊達正宗を高く買っていた。

そして秀吉の死はまるで棚から牡丹餅が落ちるように家康の手に落ちた。

まず天下取りの第一章として境を接する上杉景勝を正宗に制御させる。

しかし正宗はまだ天下を忘れていない。

正に正宗の真骨頂、わが娘五郎八姫(いろはひめ)

まぁこれがいろはと読めるにはどう頭をひねればよいのかと迷うのだが、

それを家康の五男忠輝に嫁がせる。

一方で秀吉五大老のひとり前田利家にも誓書を差し出す。

又次男忠宗には二代将軍秀忠の養女振り姫を貰う。

一方で最後の最後まで天下をあきらめない男。

正に策士の見本の様な男。

そして天下が既に決まった後、慶長18年(1613年)尚も欧州に通商の道を開こうと使節団を送る。

つまり遠くイスパニアの力を頼り天下を狙おうと云う狙いだ。

しかし既に世は家康の手に落ちている。どうあがいても正宗に勝ち目はない。

が最後の最後まであきらめない正宗は最後の足掻きを見せる。

慶長18年と云えば家康の最後の仕事、大阪城を陥落させる寸前ではないか、

何故にそこまでしなければならなかったのか分からない。

そして常長ら30名はメキシコでスペイン艦隊に乗り換え、スペインのサン・ルカ港に着く。

その後セビリャ、マドリードを経てローマに着く。

その常長が再び日本に帰りつくのは七年後である。

既に徳川の世は安定し、鎖国令は徹底していた。

さすがの正宗もこの画策が家康に漏れればどんな仕打ちを受けるかもしれない。

しかし股肱の臣支倉は些かも騒がず故郷に逼塞し正宗の障害になることは無くこの世を終える。

流石の正宗も観念し、その後は日々を風流に過ごし、家康への忠勤に励む。

そして寛永13年(1636)年5月24日61歳で静かにこの世を去った。

しかし伊達家は尚も栄え続ける。

長男秀宗は伊予宇和島藩を賜り、9代宗徳(むねのり)まで、続き明治24年公爵になっている。

そして本家仙台藩は次男忠宗が継ぎ13代慶那(よしくに)迄続き、明治7年迄生きている。

残念ながら奥羽列藩同盟に加わり朝敵とされてしまったが、

最後まで德川に忠誠をつくしその役目を終える。

「元親の無念、、」14.08.17  [歴史のこと]

 あの戸次川(べっきがわ)の戦いで最も愛する長男信親を失って以来、元親は腑抜けになってしまった。

四国の土佐に蟠踞し自らの力で四国全土を支配し、果ては本土を狙おうと云うところまで来ていた。

しかしそれを阻んだのは信長である。

だが信長が四国制服を発する直前本能寺の変で横死する。

それでいったん四国征伐は取りやめ、命拾いをする。

そもそも信長と元親は入魂の中、何しろ信長の家臣だった斉藤内蔵助利三の妹を嫁にもらっている。

それも信長の肝いりで、嫁入り道具一式を整えてやるような入れ込みよう。

斉藤内蔵助利三は明智光秀の甥にあたる。

そして元親の長子信親には自らの名の信を与えるほどの中だった。

だが信長が本土を殆ど征服し、それまで自由に元親を暴れさせていたが、

これ以上好き勝手にさせるわけにはいかなくなってきた。

全く信長の身勝手、元親が四国全土を征服するまで見向きもしなかった。

が本土にまで手を伸ばそうとしていた元親は信長の逆鱗に触れた。

しかし運命は急転直下、光秀の謀反の前に日本の魔王と呼ばれ朝廷をも制していた信長が一片の霧のごとく消えてしまった。

そもそも長宗我部の家はあの秦の始皇帝の子孫がこの国に渡ってきて、秦河勝氏を名乗って以来の家系である。

河勝の子孫遠く四国の土佐に住みつき、その21代目がこの元親である。

土佐と云えば古来朝廷に謀反した人間の遠流の地。

何故そんな名家が此処に移り住んだのか、それは南北朝時代、康暦二年(1380)細川頼之の守護代として土佐加美群守護代として派遣されることから始まる。

が土佐は西半分を公家一条氏が支配していた。

その長宗我部家も一時衰亡し、長岡郡と加賀美郡の一部に押し込められていた。

が元親の父国親の代から勃興し、勢力を盛り返してきていた。

それを受け継いだ元親、弟を加賀美郡に立て香宗我部と称させた。

最初は姫若子といわれるほどの優男だった。

がつざかっ戦に出してみると勇猛果敢、それに戦略も他を圧する程の能力を発揮した。

そして西半分を領有する一条家の乗っ取り、元々一条家は今日の公家の出、

何故四国のしかもあの辺境の地に住みついたのかはいろいろな経緯がある。

それを説明していたのでは長くなるが、その一条家の内紛に付け込み支配下に組み入れた。

そして阿波に出、伊予に出、最後は讃岐をも支配下に置いてしまった。

そして本土に足を延ばそうとする直前信長は倒れる。

次に天下を取ったのは秀吉だ。

その秀吉の大群が四国に迫った。

あまりの大軍にさすがの元親も従わざるを得なかった。

そして結局土佐一国を安堵され、他は召し上げられてしまった。

骨折り損のくたびれもうけとはこのこと。あきらめざるを得なかった。

そして運命の戸次川の戦い、最も信頼する信親と出陣し、薩摩島津軍と対戦する。

秀吉側の司令官は仙石秀久、その支援隊として戦うが、

仙石の稚拙な指揮にり遂に元親と信親は分断されてしまう。

若気の至りと云うか勇猛果敢な信親は次第に追いつめられ遂に戦死してしまう。

時に信親22歳、これ程長宗我部家に於いて大きな損失は無かった。

すべてが終わった。元親にとってはすべてが終わった。

後は余禄で生きて行くのみ、落胆のほどは想像を絶するほど。

しかしこのことを最愛の妻菜奈には知らせなかった。

妻も体調悪く殆ど臥せっている様な状態だったが、そして間もなくこの世を去ってしまった。

元親にはせめてもの幸せだった。

奈菜は信親の死を知らない。

もししていたらどれ程嘆いただろうか。

その後の元親は秀吉の命に従って朝鮮征伐に出かけている。

しかし殆ど本気で戦っていない。

もう元親にとってはどうでもよい事。

秀吉を怒らさないだけの事。

そして長宗我部の跡取りには末子の盛親を選んだ。

このほかにも次男の親和、親忠と息子がいた、その他にも女子が一人いた。

が元親は敢えて末子の盛親を選んだ。

それが長宗我部家の運命を決めた。

尤も四国の片隅にいる長宗我部、中央の政治には明るくなかった。

まして家康と交誼を得る様な手段もなかった。

かくて関が原では西軍に付き、一戦もせず逃げ帰った。

そして巷に逼塞し、あの大阪城攻めで秀頼側に付き命運は尽きてしまった。

初代能俊以来22代続いた名家も遂に途絶えてしまった。

そして世渡り上手な山之内一豊が土佐一国を与えられ入った。

が長宗我部の残党が騒ぎ、あの戦国女房の鏡と云われた妻も余りの反抗にすぐ京へ逃げ帰ったと云う。

それにしても戦国時代と云うのは有意転変の激しい時代だった。

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