「薬子の乱に名を残した平城天皇」15.04.05 [歴史のこと]
桓武天皇を悩ませた平城天皇、事件の裏には女あり、その女故に身を滅ぼしたと云っても良いだろう。
その女こそ藤原薬子(ふじはらのくすこ)だ。
薬子は既に同族式家の東縁に当たる藤原縄主(ふじはらただぬし)と云う夫がいた。
そしてその間に三男二女がいた。
まだ平城天皇が安殿親王(あでのしんのう)と呼ばれていたころ、
薬子は長女を妃として平城天皇に妃として差し入れた。
その面倒を見ると云うことで親王の側に入り込んだ。
何のことはない娘を出汁にしながら自らが親王と割りない中になってしまったのだ。
親王もまだ子供の様な小娘より、年恰好も同じくらいの薬子の色香に参ってしまった。
その親子相姦の様なふしだらさを桓武天皇はきつく叱った。
さすがに桓武天皇生存中は薬子を遠ざけていた。
だが平城天皇は既に33歳、男盛りだ。
即位するや否や桓武天皇の敷いた政治路線を継承し忠実に実行した。
六道監察史を置いて勘解由使を排するなど桓武のやり残した政策だ。
しかしその桓武天皇はもうにこの世にいない。
そして自らの欲望が前面に出始めた。
そして私生活を制する人間はいなくなった。
もう歯止めは何もなくなったのだ。
そして即位するや否や薬子を内侍として呼び戻した。
内侍とは後宮十二司の長官である。
そして従三位の位を貰い公卿の席に列せられる。
そして昼も夜も、何処に行幸する時も必ず薬子がついてゆく。
時に天皇の行幸の時も同じ籠に乗る程離れなかった。
正に嬌託百端、皇后気取りで侍っていた。
そんな薬子を兄仲成が利用しないはずはなかった。
正に虎の威を借りる狐、ここを先途と利用しまくった。
薬子の父は暗殺された藤原種継(ふじはらのたねつぐ)、である。
種継は式家宇合の子孫だ。しかし式家は種継暗殺以来凋落を重ねていた。
父種継が生きていたならば、その権勢に乗りこれ程凋落することはなかっただろうと仲成は思っていた。
何時か再興してやる、とその機会を狙っていたのだ。そのチャンスが巡ってきた。
かくのごとく藤原各家でも権力闘争は苛烈を極めていた。
結局は武智麻呂(むちまろ)の南家、房前(ふささき)の北家、
宇合(うまかい)の式家、そして麿呂(まろ)の京家に分かれる。
が一番栄えるのだが房前の北家だ。
まだ藤原氏の中で競争は続いていた時期だ。
その仲成が薬子と平城天皇の間を利用して再興を図ろうとする。
が事はそれ程順調にはいかない。
肝心の平城天皇が病気にかかったのだ。
もともと体の弱かった天皇。食事も満足に取れないような状態になった。
最早政務を取れる状態ではないと思われた。
やむなく譲位を考えざるを得なくなった。
それに仲成の陰謀で平城天皇の異母親王、伊予親王(いよのしんのう)を謀反の首謀者として、
その母吉子(きし)共々幽閉し自害に追い込んだ。
その祟りではないかと平城天皇は恐れおののいていた。
一方仲成はますます薬子の威を借りてのさばりかえっていた。
そんなところに平城天皇の発病だ。
遂に西暦809年、即位僅か三年目。遂に弱り切って譲位を決断する。
心を残しながらやむなく実弟賀美能親王、つまり嵯峨天皇に譲位する。
そして上皇となる。そして京の平安京を捨て、南都奈良平城京に移り住む。
ところがそのころから平城上皇は体調が治ってくる。
元気を回復したのだ。途端にもう一度天皇の座に帰りたい欲望にかられた。
勿論薬子の強烈な勧めもあったのだろうが、というより仲成の進めの方が強かったが、
折角手に入れた権力をどうしても離したくなかった。
遂に810年9月6日上皇は重祚を宣言する。
しかし嵯峨天皇はそのことを察していて、坂上田村麻呂に十分上皇の動静を監視させていた。
そして上皇が重祚するや否や即行動に移った。
即平成上皇の身柄を押さえさせる。
最早これまで平成の足掻きもここで終焉を迎える。
即身柄を抑えられる。
流石の平城も最早これまで、上皇はすぐ出家して頭を丸める。
薬子は内侍の位を剥奪され、毒をあおって自殺する。
世に薬子の乱と呼ばれる騒動も此処に幕を閉じる。
しかし平城上皇はその後14年間も長生し、50歳まで生きていた。
が位を譲った嵯峨天皇がその前年亡くなっている。
ただ平城上皇の孫にはあの三十六歌仙の一人在原業原(ありはらのなりひら)を残している。
業平の兄行平も有名な歌人だ。
只平城そのものは人生を持て余し、余生をひっそり平城京で生きていた。
どんな気持であっただろうか、さぞさびしい老後だっただろう。
只この天皇死後にも話題を残した。
それは古墳の中でも大きい方に数えられる市庭古墳がこの天皇の墓所だと云うことだ。
しかし既に古墳時代が終わって350年近くも経っている。
孝徳天皇が薄葬令を出してからでも300年は超えている。
何故にその天皇がそこに祀られているのか、全く理解不能。
死後も騒がせる天皇である。
その女こそ藤原薬子(ふじはらのくすこ)だ。
薬子は既に同族式家の東縁に当たる藤原縄主(ふじはらただぬし)と云う夫がいた。
そしてその間に三男二女がいた。
まだ平城天皇が安殿親王(あでのしんのう)と呼ばれていたころ、
薬子は長女を妃として平城天皇に妃として差し入れた。
その面倒を見ると云うことで親王の側に入り込んだ。
何のことはない娘を出汁にしながら自らが親王と割りない中になってしまったのだ。
親王もまだ子供の様な小娘より、年恰好も同じくらいの薬子の色香に参ってしまった。
その親子相姦の様なふしだらさを桓武天皇はきつく叱った。
さすがに桓武天皇生存中は薬子を遠ざけていた。
だが平城天皇は既に33歳、男盛りだ。
即位するや否や桓武天皇の敷いた政治路線を継承し忠実に実行した。
六道監察史を置いて勘解由使を排するなど桓武のやり残した政策だ。
しかしその桓武天皇はもうにこの世にいない。
そして自らの欲望が前面に出始めた。
そして私生活を制する人間はいなくなった。
もう歯止めは何もなくなったのだ。
そして即位するや否や薬子を内侍として呼び戻した。
内侍とは後宮十二司の長官である。
そして従三位の位を貰い公卿の席に列せられる。
そして昼も夜も、何処に行幸する時も必ず薬子がついてゆく。
時に天皇の行幸の時も同じ籠に乗る程離れなかった。
正に嬌託百端、皇后気取りで侍っていた。
そんな薬子を兄仲成が利用しないはずはなかった。
正に虎の威を借りる狐、ここを先途と利用しまくった。
薬子の父は暗殺された藤原種継(ふじはらのたねつぐ)、である。
種継は式家宇合の子孫だ。しかし式家は種継暗殺以来凋落を重ねていた。
父種継が生きていたならば、その権勢に乗りこれ程凋落することはなかっただろうと仲成は思っていた。
何時か再興してやる、とその機会を狙っていたのだ。そのチャンスが巡ってきた。
かくのごとく藤原各家でも権力闘争は苛烈を極めていた。
結局は武智麻呂(むちまろ)の南家、房前(ふささき)の北家、
宇合(うまかい)の式家、そして麿呂(まろ)の京家に分かれる。
が一番栄えるのだが房前の北家だ。
まだ藤原氏の中で競争は続いていた時期だ。
その仲成が薬子と平城天皇の間を利用して再興を図ろうとする。
が事はそれ程順調にはいかない。
肝心の平城天皇が病気にかかったのだ。
もともと体の弱かった天皇。食事も満足に取れないような状態になった。
最早政務を取れる状態ではないと思われた。
やむなく譲位を考えざるを得なくなった。
それに仲成の陰謀で平城天皇の異母親王、伊予親王(いよのしんのう)を謀反の首謀者として、
その母吉子(きし)共々幽閉し自害に追い込んだ。
その祟りではないかと平城天皇は恐れおののいていた。
一方仲成はますます薬子の威を借りてのさばりかえっていた。
そんなところに平城天皇の発病だ。
遂に西暦809年、即位僅か三年目。遂に弱り切って譲位を決断する。
心を残しながらやむなく実弟賀美能親王、つまり嵯峨天皇に譲位する。
そして上皇となる。そして京の平安京を捨て、南都奈良平城京に移り住む。
ところがそのころから平城上皇は体調が治ってくる。
元気を回復したのだ。途端にもう一度天皇の座に帰りたい欲望にかられた。
勿論薬子の強烈な勧めもあったのだろうが、というより仲成の進めの方が強かったが、
折角手に入れた権力をどうしても離したくなかった。
遂に810年9月6日上皇は重祚を宣言する。
しかし嵯峨天皇はそのことを察していて、坂上田村麻呂に十分上皇の動静を監視させていた。
そして上皇が重祚するや否や即行動に移った。
即平成上皇の身柄を押さえさせる。
最早これまで平成の足掻きもここで終焉を迎える。
即身柄を抑えられる。
流石の平城も最早これまで、上皇はすぐ出家して頭を丸める。
薬子は内侍の位を剥奪され、毒をあおって自殺する。
世に薬子の乱と呼ばれる騒動も此処に幕を閉じる。
しかし平城上皇はその後14年間も長生し、50歳まで生きていた。
が位を譲った嵯峨天皇がその前年亡くなっている。
ただ平城上皇の孫にはあの三十六歌仙の一人在原業原(ありはらのなりひら)を残している。
業平の兄行平も有名な歌人だ。
只平城そのものは人生を持て余し、余生をひっそり平城京で生きていた。
どんな気持であっただろうか、さぞさびしい老後だっただろう。
只この天皇死後にも話題を残した。
それは古墳の中でも大きい方に数えられる市庭古墳がこの天皇の墓所だと云うことだ。
しかし既に古墳時代が終わって350年近くも経っている。
孝徳天皇が薄葬令を出してからでも300年は超えている。
何故にその天皇がそこに祀られているのか、全く理解不能。
死後も騒がせる天皇である。
2015-04-05 05:52
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0