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「土佐20万石は一豊の機転で勝ち取った」16.10.02  [歴史のこと]

 今日は日曜日世俗の世界を逃れ、暫し歴史の世界に遊びたい。

さて話はあの山内一豊、世間では(やまのうち)と呼ばれているが、正式には山内(やまうち)と云うらしい。

もともとあの藤原秀郷の子孫首藤資清(しゅとうすけきよ)の曾孫俊通(とうとしみち)が相模鎌倉郡山内荘に居住し、山内を名乗った事による。

その後丹波三宮や尾張に転住し盛豊の時織田家に仕えた。

が信長の時攻められ一豊の父が殺される。

暫く流浪するが、再び一豊の時織田家に再び使え、信長死後は秀吉に仕える。

そして天正18年(1590年)遠江掛川5万石を与えられ掛川城主になる。

この一豊がかの関が原の合戦ではいち早く家康に近付き、家康にいち早く家康様の為なら自国領を投げ出しても良いと諂う、

この一言が決定打となり、あの戦いの後土佐高知20万2千石を与えられる。

五万石の領主から一躍20万石余の大大名に成ったのである。

正に口は重宝、使い方一つで何倍にも自国を大きくすることができる。

早速一豊は高知に入り、かの土佐城の建設に入る。

がもともと土佐は長宗我部氏の統治していた土地、

その残党の抵抗は強く山内氏への抗議は止まなかった。

この一豊の出世には後に見性院と呼ばれる糟糠の妻がおり、俗名は千代と云う。

彼女が嫁する時、実家から持たせられた支度金を重量持っており、

いざという時にはそれを使って婚家を助けよとの支度金を持っていた。

いざ関が原の合戦の時その十両で名馬を買い一豊はそれで十分の活躍をし、

家康に認められ土佐20万石を与えられたと云う。

その妻を連れて高知に入部した際、旧長宗我部の抵抗は激しく、

十両程度で土佐は譲れるか、と激しくののしられた。

一豊の妻千代は十日も経たないうちに京都に逃げ帰ったという。

元々の領主長宗我部氏元親は四国全土を一時は制覇してしまっていた。

だが秀吉の成敗により元に元の土佐一国に閉じ込められてしまっていた。

無念の臍をどれほどかんだか、

そしてあの九州戸次川(べっきがわ)の戦いで尤も信頼し愛していた長男信親(のぶちか)を戦死させてしまった。

それからの元親はすべての力が抜け、生きる希望を失ってしまった。

そして末子盛親(もりちか)に家督を相続させる。

その盛親が関が原では西軍についてしまったのだ。

かくて長宗我部氏は取り潰しになり、あの一豊が入部をした。

それにしても山内家は幕末まで続き、15代豊信(とよのぶ)がかの有名な容堂である。

公武合体を唱え、徳川家に大政奉還を献言する。

しかしそれは失敗し徳川幕府の崩壊になる。

しかしその容堂も失意のうちに命じ五年に死去。

その孫豊範(とよのり)が明治17年侯爵になり最後の山内家の当主になる。

一時は流浪し、攻め滅ぼされた織田家に再び頭を下げて拾ってもらった、

一豊の機転で土佐20万石を掴んだ。

世間では最後の容堂は少々酒癖が悪かったらしい。

酒席での失敗は数々あると云う。
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