「関白秀次を死に追いやった秀吉の残酷さ」16.07.24 [歴史のこと]
まず秀次を語る前にあの鶴松とは誰の子か、
またその死後すぐ生まれた御拾(おひろい、のちの秀頼)は誰の子か。
秀吉には子種が無い事は既に証明されていた。
本妻「ねね」にもその他大勢の愛妾にもただの一人も子供は生まれなかった。
ただ淀殿のみか二回も妊娠している。
淀君と云うのは信長の妹お市の方の娘である。
信長の横死を受けていち早く知りその仇を取った秀吉は、信長の孫三坊師を担いで政権を取ってしまった。
その鮮やかなることまるで信長の死を知っていたかのごとく。
だがそれでも子供は生まれなかった。
そして最初の鶴松が生まれたのが天正17年(1589年)秀吉53歳の時である。
死の9年前、突如淀君が妊娠したのだ。
どう考えても怪しい、あれほど多くの妻妾をかかえ、荒淫の余り身を縮めるのではないかと言われるほど頑張った。
がただの一人も子供は出来ていない。
それが突然この鶴丸に続いて御拾い、のちの秀頼が生まれてくる。
淀殿には主筋にある織田家の誇りがある。
それを愛妾の一員に組み込まれ、何時かは織田の血筋に取り返したいと云う怨念はあった。
さて果たして誰の子供か、片桐勝元か木村重成か、はたまた石田三成か、淀を妊娠させた男。
今となっては絶対わからぬこと。
大阪城とともにあの世に持って行ってしまった。
さて秀次が切腹をした最大の原因はこの秀吉の子供の出現によるものだが。
秀吉ももう自らに子供が出来ることはないだろうと思い、姉「とも」の息子を養子にもらった。
それが秀次である。
もう一人の弟、大和大納言秀長がいた。
まさかと思っていた秀吉の子、それか全ての誤算の始まりである。
早まってその秀次に関白職を譲ってしまった。
そこに実子の誕生だ。尤も実子かどうかわからぬが、
秀吉はなかなかの曲者、そして残忍な性格が隠れている。
信長の愛妾を櫛刺しにして殺したり、あの笑顔の下の残忍な性格は信長に仕えていたころからの本性である。
それにしても世の中は一寸先が分からぬもの。
秀吉は自分の子供が出来た事に有頂天になってしまっていた。
がその鶴丸がわずか二歳で死んでしまう。
どれ程落胆したか、その心情は想像に難くない。
がそのすぐ後、又しても淀気味が妊娠したのだ。
不自然ではないか、あれほど懲りずに励んでいたにもかかわらず、ただの一度も子供が出来たことはない。
それが都合よく淀君だけ続けて妊娠するなど。
淀にとっても子供は絶対必要。
織田の血筋を残すには子供を作るしかない。
男は誰でもよい。わが子が欲しいだけだ。かくて秀次は焦った。
もう秀吉にとって私は必要ないのではないかと。秀吉の性格をよく知っている秀次。
何時かは自らの関白職は取り上げられ、放逐されるものと考えるようになった。
案の定秀次には何題難癖が付けられるようになってきた。
しかしそれまでに秀次に言い寄っていた大名たちは、まさか秀吉があそこまで残酷な仕打ちをするとは考えていなかった。
秀次に取り入るためにわが娘を差し出し、愛妾の一員に加えてもらおうと、多くの大名たちが差し出していた。
最上義光の娘もその中に入っていた。
まだ秀次と対面もしていない娘、その他にも大勢いた。
秀吉の圧迫はますます強くなってきた。
秀次の杞憂は益々激しくなり、何度も秀吉に拝謁するために参上する。
秀吉だけではない。北の政所、つまり秀吉の正妻「ねね」の処にも参上する。
しかし秀吉の我が子への愛着はますます募り、秀次の行動は空回りをする。
秀吉の心を察した秀次は自ら高野山に退去する。
その前に退去命令は出ていたが、秀次は持ち金のすべて500両もの大金を秀吉に献上する。
がその程度では秀吉の気持ちは変わらない。
かくて秀次は文禄4年(1595年)7月15日遂にたまりかねて自ら腹を切って自死する。
秀吉の猜疑心は生まれ育ちによる自らの生い立ちからくるものだが、
余りにも急激な昇進、その位に追いつかぬわが身の出世に振り回されていた面もある。
元々秀吉は16代将軍に成ろうと思っていた。
それを備後の鞆に零落逼塞していた15代将軍義昭に打診していた。
が義昭は何処の馬の骨かも分からぬ身分のものには譲れぬ、と突っぱねていた。
ところがあの信長襲撃の時自らの屋敷を提供し、明智勢に協力していた先の関白近衛前久(さきひさ)が追われ、にげまわっていた居た時、徳川家康を頼って訪ねて来たのだ。
家康は即このお土産は大きいと秀吉に差し出す。
かくて前久の養子になり秀吉は関白に就任する。
前久もやむなく関白職を秀吉に譲る。
その関白も卒業し太閤に成り、関白職を秀次に譲っていた。
だが我が子可愛さに邪魔になった秀次を追い詰め自ら返上させるように仕組む。
秀吉とは今太閤と呼ばれ市農民から関白太政大臣にまで上り詰めた男として広く庶民には言い伝えられている。
だがその実情は決してそんなきれいごとではない。
哀れを誘うのはその後の処置だ。
秀次の血筋は全て処刑せよとの秀吉の命令は下る。
まだ秀次に御目通りもしていない。哀れなのは愛妾たちも、全て三条河原に引き出されて首をはねられてしまう。
彼女らに何の罪があったと云うのだろうか、万一秀次の子供を宿していないか、の猜疑心からである。
だがまだ実の弟大和大納言秀長か生きている間は良かった。
秀吉のやりたい放題をいさめ、真面な政治をしていた。
がその秀長が天正19年(1591年)早死にしてしまう。
まだ52才だったと云う。秀吉が狂い始めたのはそれからだ。
もし秀長が生きていたらこのような事は絶対に起こさなかっただろう。
股肱の臣を持たない秀吉、秀吉の権力による大名たちに惜しげもなく領地をあたえていた。
がそれも限界が来た。そこで思い出したのが信長の大陸進出、単に思いつきだけだった。
信長はあくまで明の領地を奪い去ること。
しかし秀吉は朝鮮の領土に拘った。
二度の朝鮮征伐にも失敗し、侘しく死を迎えた秀吉、
ただただ我が子秀頼に継がせたいと思ったが、因果応報、世の中はそうは問屋が卸さない。
耄碌爺の最後は哀れだった。
家康に縋り利家に縋り、はたまたて輝元に縋り、秀頼をよろしく、と言い残して死を迎えた。
その舌の根も乾かぬうちに家康の持ち逃げだ。
またその死後すぐ生まれた御拾(おひろい、のちの秀頼)は誰の子か。
秀吉には子種が無い事は既に証明されていた。
本妻「ねね」にもその他大勢の愛妾にもただの一人も子供は生まれなかった。
ただ淀殿のみか二回も妊娠している。
淀君と云うのは信長の妹お市の方の娘である。
信長の横死を受けていち早く知りその仇を取った秀吉は、信長の孫三坊師を担いで政権を取ってしまった。
その鮮やかなることまるで信長の死を知っていたかのごとく。
だがそれでも子供は生まれなかった。
そして最初の鶴松が生まれたのが天正17年(1589年)秀吉53歳の時である。
死の9年前、突如淀君が妊娠したのだ。
どう考えても怪しい、あれほど多くの妻妾をかかえ、荒淫の余り身を縮めるのではないかと言われるほど頑張った。
がただの一人も子供は出来ていない。
それが突然この鶴丸に続いて御拾い、のちの秀頼が生まれてくる。
淀殿には主筋にある織田家の誇りがある。
それを愛妾の一員に組み込まれ、何時かは織田の血筋に取り返したいと云う怨念はあった。
さて果たして誰の子供か、片桐勝元か木村重成か、はたまた石田三成か、淀を妊娠させた男。
今となっては絶対わからぬこと。
大阪城とともにあの世に持って行ってしまった。
さて秀次が切腹をした最大の原因はこの秀吉の子供の出現によるものだが。
秀吉ももう自らに子供が出来ることはないだろうと思い、姉「とも」の息子を養子にもらった。
それが秀次である。
もう一人の弟、大和大納言秀長がいた。
まさかと思っていた秀吉の子、それか全ての誤算の始まりである。
早まってその秀次に関白職を譲ってしまった。
そこに実子の誕生だ。尤も実子かどうかわからぬが、
秀吉はなかなかの曲者、そして残忍な性格が隠れている。
信長の愛妾を櫛刺しにして殺したり、あの笑顔の下の残忍な性格は信長に仕えていたころからの本性である。
それにしても世の中は一寸先が分からぬもの。
秀吉は自分の子供が出来た事に有頂天になってしまっていた。
がその鶴丸がわずか二歳で死んでしまう。
どれ程落胆したか、その心情は想像に難くない。
がそのすぐ後、又しても淀気味が妊娠したのだ。
不自然ではないか、あれほど懲りずに励んでいたにもかかわらず、ただの一度も子供が出来たことはない。
それが都合よく淀君だけ続けて妊娠するなど。
淀にとっても子供は絶対必要。
織田の血筋を残すには子供を作るしかない。
男は誰でもよい。わが子が欲しいだけだ。かくて秀次は焦った。
もう秀吉にとって私は必要ないのではないかと。秀吉の性格をよく知っている秀次。
何時かは自らの関白職は取り上げられ、放逐されるものと考えるようになった。
案の定秀次には何題難癖が付けられるようになってきた。
しかしそれまでに秀次に言い寄っていた大名たちは、まさか秀吉があそこまで残酷な仕打ちをするとは考えていなかった。
秀次に取り入るためにわが娘を差し出し、愛妾の一員に加えてもらおうと、多くの大名たちが差し出していた。
最上義光の娘もその中に入っていた。
まだ秀次と対面もしていない娘、その他にも大勢いた。
秀吉の圧迫はますます強くなってきた。
秀次の杞憂は益々激しくなり、何度も秀吉に拝謁するために参上する。
秀吉だけではない。北の政所、つまり秀吉の正妻「ねね」の処にも参上する。
しかし秀吉の我が子への愛着はますます募り、秀次の行動は空回りをする。
秀吉の心を察した秀次は自ら高野山に退去する。
その前に退去命令は出ていたが、秀次は持ち金のすべて500両もの大金を秀吉に献上する。
がその程度では秀吉の気持ちは変わらない。
かくて秀次は文禄4年(1595年)7月15日遂にたまりかねて自ら腹を切って自死する。
秀吉の猜疑心は生まれ育ちによる自らの生い立ちからくるものだが、
余りにも急激な昇進、その位に追いつかぬわが身の出世に振り回されていた面もある。
元々秀吉は16代将軍に成ろうと思っていた。
それを備後の鞆に零落逼塞していた15代将軍義昭に打診していた。
が義昭は何処の馬の骨かも分からぬ身分のものには譲れぬ、と突っぱねていた。
ところがあの信長襲撃の時自らの屋敷を提供し、明智勢に協力していた先の関白近衛前久(さきひさ)が追われ、にげまわっていた居た時、徳川家康を頼って訪ねて来たのだ。
家康は即このお土産は大きいと秀吉に差し出す。
かくて前久の養子になり秀吉は関白に就任する。
前久もやむなく関白職を秀吉に譲る。
その関白も卒業し太閤に成り、関白職を秀次に譲っていた。
だが我が子可愛さに邪魔になった秀次を追い詰め自ら返上させるように仕組む。
秀吉とは今太閤と呼ばれ市農民から関白太政大臣にまで上り詰めた男として広く庶民には言い伝えられている。
だがその実情は決してそんなきれいごとではない。
哀れを誘うのはその後の処置だ。
秀次の血筋は全て処刑せよとの秀吉の命令は下る。
まだ秀次に御目通りもしていない。哀れなのは愛妾たちも、全て三条河原に引き出されて首をはねられてしまう。
彼女らに何の罪があったと云うのだろうか、万一秀次の子供を宿していないか、の猜疑心からである。
だがまだ実の弟大和大納言秀長か生きている間は良かった。
秀吉のやりたい放題をいさめ、真面な政治をしていた。
がその秀長が天正19年(1591年)早死にしてしまう。
まだ52才だったと云う。秀吉が狂い始めたのはそれからだ。
もし秀長が生きていたらこのような事は絶対に起こさなかっただろう。
股肱の臣を持たない秀吉、秀吉の権力による大名たちに惜しげもなく領地をあたえていた。
がそれも限界が来た。そこで思い出したのが信長の大陸進出、単に思いつきだけだった。
信長はあくまで明の領地を奪い去ること。
しかし秀吉は朝鮮の領土に拘った。
二度の朝鮮征伐にも失敗し、侘しく死を迎えた秀吉、
ただただ我が子秀頼に継がせたいと思ったが、因果応報、世の中はそうは問屋が卸さない。
耄碌爺の最後は哀れだった。
家康に縋り利家に縋り、はたまたて輝元に縋り、秀頼をよろしく、と言い残して死を迎えた。
その舌の根も乾かぬうちに家康の持ち逃げだ。
2016-07-24 05:59
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0