「同床異夢を見た家康と政宗」16.07.10 [歴史のこと]
仙台伊達家は古く藤原北家魚名の流れだと云う。
頼朝の奥州征伐に参加し、その功績を認められ、陸奥伊達郡を与えられたと云う。
政宗はそれから数えて22代目の当主と言われる。
政宗が生まれたのは永禄10年8月3日(1567年)である。
信長か横死する15年前の話。
15歳では如何に能力があろうともやる気があろうともとても無理な話。
しかし伊達家家内の葛藤から早くして家督を譲られる。18歳の時である。
父輝宗は隣の最上家から妻を貰っていた。
それがともすれば伊達家を乗っ取ろうとする最上義光の妹義姫である
。輿入れ最初から隙あらば伊達家を乗っ取るよう腹意を伝えられていた。
そして正宗より弟小次郎を愛した。
伊達家の意思は乱れ、遂にその小次郎を自らの手で消し去ることになる。
そればかりではない、政宗を最も愛してくれた父輝宗が畠山に人質に取られ、
その父もろとも畠山を殺さなければならなかった。
正宗一生の痛恨であろう。
時代は既に秀吉の代を越え家康のものとなっていた。
その家康も終末期、将軍職も秀忠に譲り、
豊臣も征伐し75歳の生涯を終えようとしていた時、
だが政宗が死する寛永13年(1636年)70歳で死するまで最後の最後まで天下取りをあきらめなかった。
その生き方の激烈さは仙台64万国を誇るだけでなく、
伊予宇和島潘10万国を与えられる徳川幕府の柱石として活躍する大大名として後世に名お残した男である。
が彼ほど腹黒い男もいない。
既に禁教令が出て久しい慶長18年(1613年)遠くイタリヤに使節を送り、
その力を持ってこの国を乗っ取ろうと画策した男である。
家康が死する3年前の話。
何処まで本気であったのか、家康も当時ヌエバ・エスバニアと云われたメキシコに銀の精錬をする技術を求めて使節を送ろうとしていた。
太平洋を西に渡るなど破天荒な事を思い付いたのも西洋の入れ智慧無くしては考えられないこと。
などそれに便乗してローマにまで助けを求め様とした政宗も普通の大名では考えもつかないことである。
既にカソリックは禁教とされ、宗教によるこの国への進出を禁止され、
商売にのみ特化したオランダなどの新教、所謂プロテスタントのみ交流を許す命令を下していた。
秀吉の時代から宗教によるこの国への侵略は見抜かれていた。
だが家康はヌエバ・エスパ二アに灰吹法による銀の精錬があることを知ってその技術を手に入れ様とした。
一方政宗はそれに便乗する形でローマに使節を送ろうと考えた。
正宗の忠実なる家臣、支倉(はぜくら)六右衛門常長を団長としてソテロ・ビスカイロら150名を仙台藩男鹿半島月の裏港を慶長18年(1613年)9月15日に出港する。
目的はローマカソリックの応援を得て天下を取ろうとしていたのだ。
太平洋を西に向かって次の年1月末、ヌエバ・イスパニア、今のメキシコ、そしてアカプルコ港に到着する。
そしてメキシコ市を歩いて渡り、又してもヴェラクルスのサン・ファン・デ・ウルワ港を出発し、キューバのハバナに到着する。
そこからまた船に乗り、大西洋を渡りそしてスペイン、セビリャに着く。
陸路を通り、スペインの首都マドリードに到着する。
そして慶長20年(1615年)やっとローマに着きフェリペ三世に謁見することができる。
そしてローマ市民権証書を授与される。
しかしそんなもの何の意味もなく価値もない。
既にカソリックは日本から排除されて久しい。
そして支倉常長は日本に帰るため、慶長20年閏6月21日(1615年)日本に向かって帰途に就く。
日本では大阪夏の陣が終わり天下は家康のものと決してしまっていた。
もし政宗がそのような使節を送っていたことがばれれば打ち首どころではない。
仙台藩も伊予大洲半もすべて取り上げられ、正宗の夢は消え、生きては居られなかっただろう。
しかし日本に帰った支倉常長は黙して語らず、静かに田舎に逼塞し、元和八年(1622年)死してしまった。
52才であったと云う。
政宗も忠実な良き家来を持ったものである。
結局支倉六右衛門の働きは何の意味もなく徒労に終わったわけだ。
全ての画策が無に終わった事を悟った政宗は、一転徳川の忠実な家臣に転身する。
秀吉に呼び出され、躊躇の限りを尽くして遅参し、危うく命を取られるところであった。
が家康が中に取り入り、危うく一命は救われたこともあった。
その大恩ある家康をも謀ったのである。
何処まで腹黒いか、とても一筋縄ではいかぬ男。
もっとも何時でも表面では忠実な家臣役を演じていたが、
そのあまりの忠節振りが認められ、仙台本潘だけでなく、
四国伊予宇和島に10万石の領地まで与えられる。
正に正宗の真骨頂、将軍家康を欺き核も裏側で天下取りの画策をしていたとは、
既に家康は元和二年(1616年)駿府で没している。
二代将軍秀忠も三代家光に将軍職を譲ろうとしている時、
正宗の画策陰謀は最後まで天下をあきらめなかった。
そして伊達家は伊予宇和島10万石と仙台67万国を与えられ、明治維新までつづく。
本家仙台藩は次男忠宗に任せ、長男秀宗は四国宇和島藩祖とさせる。
以来仙台藩は15代続き、宗教(むねよし)の代に明治維新を迎える。
宗教は男爵に叙せられ、宇和島潘は同名宗教(むねあつ)第二明治維新を迎える。
が早死にしてしまい結局どの爵位を受けることはなかった。
それにしても家康を謀った男、そしてそ知らぬ顔をして忠臣を装った男伊達正宗、
これ程スリリングな勝負をした男はいない。
頼朝の奥州征伐に参加し、その功績を認められ、陸奥伊達郡を与えられたと云う。
政宗はそれから数えて22代目の当主と言われる。
政宗が生まれたのは永禄10年8月3日(1567年)である。
信長か横死する15年前の話。
15歳では如何に能力があろうともやる気があろうともとても無理な話。
しかし伊達家家内の葛藤から早くして家督を譲られる。18歳の時である。
父輝宗は隣の最上家から妻を貰っていた。
それがともすれば伊達家を乗っ取ろうとする最上義光の妹義姫である
。輿入れ最初から隙あらば伊達家を乗っ取るよう腹意を伝えられていた。
そして正宗より弟小次郎を愛した。
伊達家の意思は乱れ、遂にその小次郎を自らの手で消し去ることになる。
そればかりではない、政宗を最も愛してくれた父輝宗が畠山に人質に取られ、
その父もろとも畠山を殺さなければならなかった。
正宗一生の痛恨であろう。
時代は既に秀吉の代を越え家康のものとなっていた。
その家康も終末期、将軍職も秀忠に譲り、
豊臣も征伐し75歳の生涯を終えようとしていた時、
だが政宗が死する寛永13年(1636年)70歳で死するまで最後の最後まで天下取りをあきらめなかった。
その生き方の激烈さは仙台64万国を誇るだけでなく、
伊予宇和島潘10万国を与えられる徳川幕府の柱石として活躍する大大名として後世に名お残した男である。
が彼ほど腹黒い男もいない。
既に禁教令が出て久しい慶長18年(1613年)遠くイタリヤに使節を送り、
その力を持ってこの国を乗っ取ろうと画策した男である。
家康が死する3年前の話。
何処まで本気であったのか、家康も当時ヌエバ・エスバニアと云われたメキシコに銀の精錬をする技術を求めて使節を送ろうとしていた。
太平洋を西に渡るなど破天荒な事を思い付いたのも西洋の入れ智慧無くしては考えられないこと。
などそれに便乗してローマにまで助けを求め様とした政宗も普通の大名では考えもつかないことである。
既にカソリックは禁教とされ、宗教によるこの国への進出を禁止され、
商売にのみ特化したオランダなどの新教、所謂プロテスタントのみ交流を許す命令を下していた。
秀吉の時代から宗教によるこの国への侵略は見抜かれていた。
だが家康はヌエバ・エスパ二アに灰吹法による銀の精錬があることを知ってその技術を手に入れ様とした。
一方政宗はそれに便乗する形でローマに使節を送ろうと考えた。
正宗の忠実なる家臣、支倉(はぜくら)六右衛門常長を団長としてソテロ・ビスカイロら150名を仙台藩男鹿半島月の裏港を慶長18年(1613年)9月15日に出港する。
目的はローマカソリックの応援を得て天下を取ろうとしていたのだ。
太平洋を西に向かって次の年1月末、ヌエバ・イスパニア、今のメキシコ、そしてアカプルコ港に到着する。
そしてメキシコ市を歩いて渡り、又してもヴェラクルスのサン・ファン・デ・ウルワ港を出発し、キューバのハバナに到着する。
そこからまた船に乗り、大西洋を渡りそしてスペイン、セビリャに着く。
陸路を通り、スペインの首都マドリードに到着する。
そして慶長20年(1615年)やっとローマに着きフェリペ三世に謁見することができる。
そしてローマ市民権証書を授与される。
しかしそんなもの何の意味もなく価値もない。
既にカソリックは日本から排除されて久しい。
そして支倉常長は日本に帰るため、慶長20年閏6月21日(1615年)日本に向かって帰途に就く。
日本では大阪夏の陣が終わり天下は家康のものと決してしまっていた。
もし政宗がそのような使節を送っていたことがばれれば打ち首どころではない。
仙台藩も伊予大洲半もすべて取り上げられ、正宗の夢は消え、生きては居られなかっただろう。
しかし日本に帰った支倉常長は黙して語らず、静かに田舎に逼塞し、元和八年(1622年)死してしまった。
52才であったと云う。
政宗も忠実な良き家来を持ったものである。
結局支倉六右衛門の働きは何の意味もなく徒労に終わったわけだ。
全ての画策が無に終わった事を悟った政宗は、一転徳川の忠実な家臣に転身する。
秀吉に呼び出され、躊躇の限りを尽くして遅参し、危うく命を取られるところであった。
が家康が中に取り入り、危うく一命は救われたこともあった。
その大恩ある家康をも謀ったのである。
何処まで腹黒いか、とても一筋縄ではいかぬ男。
もっとも何時でも表面では忠実な家臣役を演じていたが、
そのあまりの忠節振りが認められ、仙台本潘だけでなく、
四国伊予宇和島に10万石の領地まで与えられる。
正に正宗の真骨頂、将軍家康を欺き核も裏側で天下取りの画策をしていたとは、
既に家康は元和二年(1616年)駿府で没している。
二代将軍秀忠も三代家光に将軍職を譲ろうとしている時、
正宗の画策陰謀は最後まで天下をあきらめなかった。
そして伊達家は伊予宇和島10万石と仙台67万国を与えられ、明治維新までつづく。
本家仙台藩は次男忠宗に任せ、長男秀宗は四国宇和島藩祖とさせる。
以来仙台藩は15代続き、宗教(むねよし)の代に明治維新を迎える。
宗教は男爵に叙せられ、宇和島潘は同名宗教(むねあつ)第二明治維新を迎える。
が早死にしてしまい結局どの爵位を受けることはなかった。
それにしても家康を謀った男、そしてそ知らぬ顔をして忠臣を装った男伊達正宗、
これ程スリリングな勝負をした男はいない。
2016-07-10 05:57
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