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「フロイス抜きでは信長は語れない」16.06.19   [歴史のこと]

信長は天文三年(1534年)織田信秀の三男として生まれた。

父信秀には12男、12女がいる。そして信長にも男12名女12名の子供を作った。

よくぞ作ったものだと感心するが、どちらも作った子供が真面に成長するかどうかわからない。

あの時代10人生まれても生き残るのはせいぜい2.3人程度。

父信秀は信長19歳の時42歳で病死する。

そして家督を信長に継がせる。

あのやんちゃ坊主、今で云う不良少年の見本のような信長に家督を譲るなど考えられなかった。

傅役(もりやく)の平手秀政がどれ程注意をしようとその乱行は止まなかった。

遂に自らの腹を切って説得する事態になる。

流石に信長もこれには参ったようで、のちに秀正の為に秀政寺(せいしゅうじ)を建立し祀ったと云う。

家康も家臣の信望厚かった忠長を排して家光に家督を継がせたように。

弟の信勝、信行とも言われるが、言葉上手に信長に誘い出され殺されている。

母の土田氏はこの信行を信長より可愛がっていた。

信長が家督を譲り受け、織田の当主となった時、まず将来禍根になりそうな弟の信行を排除した。

それから色々あるがあの永禄三年(1560年)今川義元を撃つまでは一地方の領主に過ぎなかった。

官位も上総介でまだ守護職ではない。

義元を討ったことにより一気にその名は国中に知れることとなる。

わずか二千七百ほどの勢力で約四万の兵力を誇る今川義元を討ちとったのだ。

それから信長の進撃は始まる。

信長27歳の頃、それから明智光秀に打たれるまでの22年間の活躍である。

邪魔をする人間は全て排除する。つまり殺害してしまう。

一体信長がどれほどの人間を殺したと思うか、大方10万人、

伊勢長嶋で約二万人、比叡山でおよそ五千人、北陸一向宗徒4万人、

浅井・朝倉連合軍。武田一族、本願寺宗徒、その他あちこちで十万人は殺しているだろう。

あの当時日本の人口は約1280万人弱、その内10万人と云えば一約8%弱にもなる。

それは恨まれるはず、今でも信長を恨んでいる子孫は多い。

だがそんな信長に一番影響を与えた男、それは宣教師のルイス・フロイスだ。

ザビエルの後を追ってこの国にやって来た。

最近吉川弘文館で出た池上裕子氏の信長の人物評には、そのフロイスの事が一行も乗っていない。

フロイスと信長の交流を書かないで信長は語れない。

流石戦後生まれの批評家である。

さてそのフロイスがザビエルの後を追ってこの国にたどり着いたのは永禄6年(1563年)。

信長が義元を討ち、天下に名をとどろかせた三年後である。

フロイス32歳、肥前長崎の横瀬浦にたどり着いた

。しかし既にこの国に来て布教活動していたザビエルは去っていた。

この布教活動にすぐ洗脳され数々の大名が口説き落されたようだが、その象徴の様な大名が高山右近。

それも父親の時代からである。

しかしそれ等に抵抗した大名も多くいた。

そして遂に和田惟政の仲介で信長に初対面を果たす。

京都に二条城を建立している現場で、念願の引見を許している。

それもすぐにではなく遠くからフロイス達の行動を眺めながらそれを見極めてから引見したのである。

用心深い男だ。

後に信長はすぐに引見しなかったのは,余も伴天連に誑かされたかと思われたくなかった為述べている。

だが所詮は誑かされてしまった。

およそこの国で地球儀を見たのは信長が初めてだろう。

そして地球が丸いもの、などと他の人々には想像もつかなかったこと。

フロイスは信長の興味あることを次々に披露して行った。

信長は如何に日本が小さいか、それを実感した事だろう。

そして盛んに目の前にある明国の実情を聞きだした。

明国は当時人口約1億二千万、この国の約十倍だ。

当時国内では戦国の世が続き、これほど実力を持った武装集団はない。

その力をもってすれば明国を征服など難しい話ではない、と信長は思った。

全てフロイスから仕入れた情報だ。

信長は徹底した実力主義、既に権威だけしか残っていなかった天皇家など不要だと思っていた。

実力が全て、権威など信長にとって何の値打ちもない。

その計画を酔った勢いで秀吉に話してやった。

朝鮮半島はその為の通路である。

目的はあの明国、明国を征服した暁には秀吉にこの国はくれてやると豪語した。

そんな構想を膨らませたのもフロイスだ。

言わばフロイスに唆されたと云っても良い。

彼はこの国で布教を広めたい一心、信長の興味ある情報はすべて提供した。

そして既に国内には信長に抵抗できるような勢力は無くなってしまった。

そして慢心しきってわずかな伴揃えを連れて本能寺に宿泊した。

本能寺は信長の京での城のようなもの、そして前日夜遅くまで茶会を開いた。

それを光秀は見逃さなかった。

光秀はこの国のしきたりと伝統を一番重んじる人間。

このままではこの国の歴史を覆ささせられる。

それだけは何としても防ぎたかった。今こそチャンスだ。

この国の破壊者を葬り去る時だ。

信長から近畿管領の地位まで与えられていた男。

けっして信長か憎いわけではない。

そんな光秀の元に朝廷から色々指図が出ていた。

何とか信長を排除してもらいたい。祈るような気持であった。

その思いは近衛前久(このえさきひさ)から十分に伝わっていた。

しかし光秀は全て自分の責任において差し違える覚悟をした。

かくて信長は暗殺され、秀吉の天下となり、キリスト教禁教令を出す。

確かにそれ等は宗教による侵略である。

しかし既にその作戦に染まってしまっていた。

そして決定的に禁教令を出したのは家康である。

秀吉、家康の判断は間違っていなかった。

世界中の殆どがこの布教戦略によって征服されてしまっていた。

キリスト教と云うのは一つの戦法である。

布教活動によって自らの命を捨ててまで人々を洗脳してゆく、

日本も信長の新し物好きの好奇心によって危うく乗っ取られてしまうところであった。

だがこの国には二千年の古き文化と伝統があった。

それ等が信長の野望、そしてフロイスの野望を打ち砕いてしまった。

今も続く宗教戦争、この国はその叡智によってその手から逃れた。

信長が死して434年、今また別の勢力がこの国を従えようとしている。

所謂経済戦争として、経済だけに現を抜かすな、その心も、、
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