「水無月(みなづき)6月来れば思い出す、、、」16.06.02 [歴史のこと]
天正10年(1582年)6月2日、と云っても実際には違う。
当時は旧暦、新暦に直せば6月21日になるそうだ。
しかしこれはあくまでユリウス暦、グレゴリオ暦では7月1日になるそうだ。
日本では梅雨の真っ最中、さぞ火縄銃の火をつけるのも苦労しただろう。
光秀が敵は本能寺にあり、と号令を下して兵隊達は火縄に火をつけ出した。
尤も斉藤利蔵たちの腹心の部下に知らせていたが、正に信長は驕り切っていた。
わずか70名ほどの手下を連れて本能寺に乗り込んだ。
そこを光秀が1万4千の兵員を引き連れて襲った。
正に油断大敵の見本。
信長は最早俺に逆らうやつはいないだろうと油断しきっていた。
かくて信長は炎の中で腹を切る。
まさかあれほど重用していた光秀に襲われるとは、一瞬訳が分からなかっただろう。
しかし襲撃者は誰かと森蘭丸に聞けば明智光秀とだと云う。
それを聞くや否や「是非もなし」と一言を残して炎の中で自尽した。
日本の歴史を大転換せしめた出来事。
まさかあれほど天下を従え攻撃されるなどとは夢にも思わなかった信長。
信長が世に出たのは永禄三年(1560年)桶狭間で今川義元の首を取ってからだ。
それから22年の間に天下を平らげた。
信長には神も仏もない、ただ権力と実力があれば天下は取れると考えていた。
その信長は永禄12(1569年)宣教師ルイス・フロイスを引見している。
フロイスは日本で布教したい一心、信長の興味を引くために西洋の新知識を次々披露する。
恐らく日本人で地球儀を見たのは信長が初めてであろう。
そしてすぐ隣に明と云う大国があることを知った。
フロイスからその内情をつぶさに聞き出し、それを征服することを構想する。
そしてその為には朝鮮を経由して攻め込む事を考える。
朝鮮は単なる通路だ。あくまで大陸に攻め込むこと。
その計画を立てていた。
がその頃、最も気を許す秀吉が正月のごあいさつにやって来た。
その秀吉に酔った勢いでその計画を教えてやった。
それが後年秀吉の朝鮮征伐と言われる戦だ。
秀吉は明の大国に攻め入るような遠大な計画は持っていない。
部下を従わせるのに次々に領土を与え、遂にはその原資が無くになってしまった。
そこで昔信長から聞いた大陸征伐の話を思いだした。
しかし所詮計画もなく信長の昔話を思い出したまで、
遂には商人上がりの小西行長に騙され、偽の講和を結ぶ。
だが話を聞いてみればこの国の利益はほとんどない。
そして再び朝鮮征伐を行う。
付け焼き刃と云うものはそんなものだろう。
その最中に秀吉は亡くなる。
慶長三年(1598年)最後は哀れにも我が子秀頼をよろしく頼む、と家康ほか重臣に縋った。
世の中はそんなに甘くない。
その舌の根が乾かぬうちに家康に天下を取られてしまった。
家康には18松平という親藩があり、譜代と云う家臣群がいた。
それにかなう様な指導者はいなかった。
それにしてもあの激烈な信長の生き様、毎年6月が来れば頭に蘇る。
それも今や夢物語。
この民主主義と云う愚民化の果てにこの様だ。
当時は旧暦、新暦に直せば6月21日になるそうだ。
しかしこれはあくまでユリウス暦、グレゴリオ暦では7月1日になるそうだ。
日本では梅雨の真っ最中、さぞ火縄銃の火をつけるのも苦労しただろう。
光秀が敵は本能寺にあり、と号令を下して兵隊達は火縄に火をつけ出した。
尤も斉藤利蔵たちの腹心の部下に知らせていたが、正に信長は驕り切っていた。
わずか70名ほどの手下を連れて本能寺に乗り込んだ。
そこを光秀が1万4千の兵員を引き連れて襲った。
正に油断大敵の見本。
信長は最早俺に逆らうやつはいないだろうと油断しきっていた。
かくて信長は炎の中で腹を切る。
まさかあれほど重用していた光秀に襲われるとは、一瞬訳が分からなかっただろう。
しかし襲撃者は誰かと森蘭丸に聞けば明智光秀とだと云う。
それを聞くや否や「是非もなし」と一言を残して炎の中で自尽した。
日本の歴史を大転換せしめた出来事。
まさかあれほど天下を従え攻撃されるなどとは夢にも思わなかった信長。
信長が世に出たのは永禄三年(1560年)桶狭間で今川義元の首を取ってからだ。
それから22年の間に天下を平らげた。
信長には神も仏もない、ただ権力と実力があれば天下は取れると考えていた。
その信長は永禄12(1569年)宣教師ルイス・フロイスを引見している。
フロイスは日本で布教したい一心、信長の興味を引くために西洋の新知識を次々披露する。
恐らく日本人で地球儀を見たのは信長が初めてであろう。
そしてすぐ隣に明と云う大国があることを知った。
フロイスからその内情をつぶさに聞き出し、それを征服することを構想する。
そしてその為には朝鮮を経由して攻め込む事を考える。
朝鮮は単なる通路だ。あくまで大陸に攻め込むこと。
その計画を立てていた。
がその頃、最も気を許す秀吉が正月のごあいさつにやって来た。
その秀吉に酔った勢いでその計画を教えてやった。
それが後年秀吉の朝鮮征伐と言われる戦だ。
秀吉は明の大国に攻め入るような遠大な計画は持っていない。
部下を従わせるのに次々に領土を与え、遂にはその原資が無くになってしまった。
そこで昔信長から聞いた大陸征伐の話を思いだした。
しかし所詮計画もなく信長の昔話を思い出したまで、
遂には商人上がりの小西行長に騙され、偽の講和を結ぶ。
だが話を聞いてみればこの国の利益はほとんどない。
そして再び朝鮮征伐を行う。
付け焼き刃と云うものはそんなものだろう。
その最中に秀吉は亡くなる。
慶長三年(1598年)最後は哀れにも我が子秀頼をよろしく頼む、と家康ほか重臣に縋った。
世の中はそんなに甘くない。
その舌の根が乾かぬうちに家康に天下を取られてしまった。
家康には18松平という親藩があり、譜代と云う家臣群がいた。
それにかなう様な指導者はいなかった。
それにしてもあの激烈な信長の生き様、毎年6月が来れば頭に蘇る。
それも今や夢物語。
この民主主義と云う愚民化の果てにこの様だ。
2016-06-02 05:36
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